「おそ松くん」や「ひみつのアッコちゃん」など、数多くの作品を世に送り出した赤塚不二夫先生。
若い頃はどんな感じだったのでしょうか?
娘や妻、伝説や死因についてもまとめてみました。
Contents
赤塚不二夫の経歴、作品、出身地などのプロフィール
まずは慎本真先生のプロフィールをどうぞ。
名前 | 赤塚 不二夫(あかつか ふじお)
本名:赤塚 藤雄 |
出身地 | 出生地:旧満州熱河省承徳 |
年齢(生年月日) | 1935年9月14日~ 2008年8月2日没 |
経歴 |
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代表作品 |
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赤塚不二夫先生は、いくつもの大ヒット漫画を生み出し、何年にも渡ってアニメがリメイクされてきました。
ギャグ漫画が有名ですが、「ひみつのアッコちゃん」といった少女漫画も描いているため、さまざまな年代や性別の人々が作品を目にしています。
2020年現在でも「おそ松くん」の大人の姿になった「おそ松さん」が放送されるなど、赤塚不二夫先生作品の人気はとどまるところを知りません。
赤塚不二夫の若い頃は?
引用元:海cafe2
赤塚不二夫先生は、満州国で生まれ、若いころは壮絶な日々を送ってきました。
子供の頃に隣に住む日本人一家が中国人に惨殺されたり、終戦直後に目の前で殺戮や暴動が繰り広げられたりと、何度も生命の危機に直面してきました。
日本に来るまでに妹を2人亡くし、一歩間違えば赤塚不二夫先生も中国残留孤児になるところだったようです。
やっと本土についたあとも、満州国から来たということで、いつまでもよそ者扱いされて差別されてきました。
中学校を卒業したあとも金銭的な事情から高校進学をあきらめ、就職の道を選びました。
現在からは考えられないほど苦労していますが、この時代は誰でもそんなものだったのかもしれませんね…
小学六年生の頃に読んだ手塚治虫先生の「ロストワールド」に衝撃を受けて漫画家を志すと決めていた赤塚不二夫先生。
幸いにも、映画の看板制作の仕事についたおかげで映画館の管理人と仲良くなり、そこから映画を無料で鑑賞できるようになりました。
そのころに漫画の投稿を開始。
創作意欲が刺激されたのかもしれませんね。
18歳には上京し、化学薬品工場で勤務しながら投稿を続け、1956年には描き下ろし単行本でデビューしました。
その後、あの有名なトキワ壮に移り、有名なギャグ漫画家として活動していくことになります。
ちなみにトキワ壮では、美青年として認識されていたそうですよ。
たしかに若い頃の画像を見ると、かなりのイケメンですね。
赤塚不二夫の妻(奥さん)は誰?
引用元:本の話
赤塚不二夫先生は2回結婚しており、妻が2人います。
1人目の奥さんは、当時アシスタントをしていた登茂子さんです。
1961年に結婚しましたが、登茂子さんとは1970年から別居状態となり、1973年に離婚しました。
離婚を切り出したのは赤塚不二夫先生の方からで、登茂子さんがそれを受け入れたとのこと。
2人目の奥さんは、元スタイリストの眞知子さんです。
なんと、再婚を進めたのは、前妻の登茂子さん。
結婚会見では登茂子さん保証人として同席し、世間をざわつかせました。
再婚相手である眞知子さんと前妻の登茂子さんは親友のように仲が良く、赤塚不二夫先生とは「3人夫婦」と言われるほどだったようです。
上記の画像では、真ん中が赤塚不二夫先生、左が真知子さん。右が前妻の登茂子さんです。
2012年には、「これでいいのだ!!赤塚不二夫と二人の妻」というNHKプレミアムドラマも制作・放送されました。
2006年7月12日に、赤塚不二夫先生を懸命に看病してきた再婚相手である眞知子さんが急死、2008年7月30日には登茂子さんが病死、その3日後の2008年8月2日に赤塚不二夫先生も死去しました。
わずか2年の間に3人が立て続けに亡くなるという、不思議な運命を感じさせる最後となりました。
赤塚不二夫の娘(子供)は誰?
引用元:毎日新聞
赤塚不二夫先生には子供が1人いらっしゃいます。
前妻である登茂子さんとの間に1965年に生まれた娘・りえ子さんです。
8歳の時に両親が離婚してからは、母親に引き取られて育ちました。
私立女子校を卒業後は女優をしたこともあり、19歳では父である赤塚不二夫先生と共に「オールスター家族対抗歌合戦」に出演。
ヌード写真は雑誌フライデーに掲載されたりもしましたが、当初は抵抗があったものの、若いころに撮ってもらえたのはいい思い出と語っています。
赤塚不二夫先生が再婚する際には、登茂子さんと共に結婚会見に同席しました。
1989年に結婚しましたが、1992年に離婚、2002年に再婚をしています。
りえ子さんは、赤塚不二夫先生本人と2人の妻がいない今、フジオ・プロダクションの社長を務めています。
2008年には、母である登茂子さんの遺体を前にして父の容体急変を知らされ、たった3日のうちに両親を亡くしたりえ子さん。
失意の中にいましたが、夢で赤塚不二夫先生が出てきて「死んではいけない。りえ子、生きなさい」と言ってくれたことで、元気を取り戻したそうです。
赤塚不二夫の伝説や逸話について
壮絶な人生と様々な作品を生み出した赤塚不二夫先生は、伝説や逸話もあります。
信頼していた経理担当に約2億円もの横領をされた際、なんと犯人の将来のことを考え、告訴しなかったというのです。
普通ならばそんな大金を横領されたら許せないでしょうに、器が大きいというか、優しさが感じられる伝説のエピソードですね。
また、担当に漫画の原稿をなくされた際にも、怒ることなく笑って原稿を描き直したそうです。
しかも、原稿をなくして落ち込んでいる担当を気遣い、呑みに誘ったあとに原稿を描き直したのです。
対応から作業スピードまで、まさに伝説級の出来事ですね。
また、素人芸人時代のタモリの前に現れ、自分の特別番組に出演させたり、タモリを自分のマンションに住まわせたり、お小遣いを月20〜30万円あげていたことも、普通はできません。
2008年には、再現ドラマとドキュメンタリーで構成された「これでいいのだ!! 赤塚不二夫伝説」という番組も放送されました。
赤塚不二夫先生は、普通ではできないことをやってのけた、伝説の人物と言えるでしょう。
赤塚不二夫の死因は?タモリの弔辞についても
引用元:マイベストプロ
赤塚不二夫先生の死因は、肺炎です。
2004年から意識不明の植物状態で、2008年に亡くなりました。
それまでも、1997年には食道がんを診断されたり、2000年には急性硬膜下血腫で緊急手術になったり、2002年には脳内出血で手術を受けたりと、しょっちゅう病院のお世話になっていました。
告別式では、タレントのタモリが本名の森田一義名義で、弔辞を読みました。
タモリは「私もあなたの数多くの作品のひとつです」と語り、約8分間にわたって弔辞を読みました。
その内容が良かったとのことで文藝春秋には全文が掲載されましたが、しかし実は読んでいたのではなく、白紙を手にしていたそうです。
タモリは紙に書こうとも思ったそうですが、赤塚先生ならばギャグでいこうと思い、白紙にすることに決めたのだとか。
約8分もの弔辞を白紙を手にして行ったということは、赤塚不二夫先生との出会いや思い出が本物だったからに他ならないでしょう。
数々のマンガ作品だけではなく、今やだれでも知っている有名なタモリさんも世に送り出していたとは、赤塚不二夫先生は本当に偉大な人物でしたね。